クメール・ルージュの拠点のひとつでもあったアンコール地方

カンボジアにある東南アジアを代表する遺跡、アンコールワット。近くにあるアンコール・トムなどを含む、数多くの遺跡と共に「アンコール遺跡」として世界遺産にも登録されています。このアンコール地方は、フランス植民地時代を経て、第二次世界大戦後はカンボジアの領土になりましたが、1975年からのクメール・ルージュ政権時代には都市から多くの人々が拉致されて、農民として働かせられていた地方でもありました。ベトナム軍の侵攻により、1979年にクメール・ルージュは政権を追われましたが、首都プノンペンから逃れて1990年代初頭まで地方や森の中で抵抗を続けました。このアンコール地方は、そんなクメール・ルージュの拠点のひとつでもあったのです。

クメール・ルージュって何?

「クメール・ルージュ」とはそもそも何かというと、共産主義の中でもかなり特殊ですが「原始共産主義」を目標に掲げていたグループです。そのため、学校、工場、病院を閉鎖、貨幣を廃止、宗教も禁止、近代科学は否定、それに関わる教師、知識人、医師、僧侶、科学者、資本家を処刑したのです。彼らは文明の発達を廃して、ほぼ全員が集団農場で働けば理想の世界ができると信じていました。それが何世紀も前の話でなく、たかだか40年前の話ですから驚きです。この時、踊り子を含むカンボジアの伝統芸能の伝承者は、ほとんど殺されてしまったと言います。

クメール・ルージュが残した傷あと

ベトナム軍が侵攻したのは、こんな虐殺が行われた後のことでした。クメール・ルージュは優秀な人材は、あらかた内部粛正してしまったので敗北し、あっという間に首都を追われます。しかし国境付近やジャングルに立てこもり、1990年代半ばまではある程度の勢力を維持していました。そんなクメール・ルージュですが、反ベトナム、反ソ連の中国やアメリカは支援していたからです。その時期に多くの地雷が、遺跡を含むこの地方のあちこちに仕掛けられました。また、アンコールワットも一時期はクメール・ルージュが要塞として利用し、その時代に多くの仏像や神像の顔が削り取られたと言います。私がこの虐殺を知ったのは、少し後に作られた1984年の劇映画『キリングフィールド』でです。辛い映画ですが、カンボジアを訪れる前にこの映画をぜひご覧になることをおすすめします。

兵士の護衛付きで観光が始まる

さて、クメール・ルージュの勢力が弱まり、ようやくアンコール遺跡が部分的に観光客に開放されるようになったのは、1980年代半ばからでした。当初はまだゲリラが森にいたので、政府の兵士の護衛付きで、しかも地雷が撤去された場所のみでした。それでも、ようやくこの遺跡が見られるということで、多くの観光客を集めましたようです。(後編に続きます)