ムガル帝国第3の都は現在のパキスタンに

現在ではインドとパキスタンという別な国に分かれてしまいましたが、ムガル帝国から英領時代にかけてラホールはデリー、アグラと並ぶ北インドの主要都市でした。特にムガル帝国ではアクバル帝時代の1585〜1598年に首都とされ、またそれ以外の時代でも、副首都のような存在でした。この時期、アクバルが都を西のラホールに移したのは、北西の都市カーブルやカンダハル、そして中央アジアににらみを効かせる意味もあったようです。何と言ってもこれらの地は、ムガル帝国発祥の地なのですから。アクバルが築いたラホール・フォートは、後の皇帝たちによってどんどん増築されていきます。

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都は再びアグラへ

しかし、帝国の都は1598年に再びアグラへと戻ります。このころはアクバルの興味はデカン高原の征服に移っていました。その頃デカン高原には、ムスリム5王国と呼ばれるイスラム系の5つの王国が栄えていました。アクバルはそれらと戦うため、さらに南にあったヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国(現在のハンピ)と同盟を結ぼうとしたこともあります。こうしてムガル帝国の版図を広げ、統治制度を確立し、また文化や宗教にも通じ、ムガル帝国の中でもっとも英明な君主と言われたアクバルですが、大きな悩みがありました。それは後継者問題でした。

アクバルの失意と死

アクバルには3人の息子がいましたが、2人は亡くなり(酒の飲み過ぎが原因と言われています)、長男のサリームだけが残りました。サリームも麻薬に溺れていた時期があったようです。サリームは父親に反抗的でした。ついには1600年に反乱を起こして、自らが皇帝になろうとします。アクバルはサリーム討伐の兵を進めましたが、1604年、サリームが詫びを入れたことにより、争いは終わります。しかしその翌年、アクバルは亡くなり、サリームが第4代皇帝ジャハーンギールとして帝位を引き継ぎます。アクバル63歳、ジャハーンギールは36歳のことでした。アクバルはどんな思いで亡くなったのでしょう。

アクバルの墓はどこにある?

アクバルの墓は、アグラの北西10kmにあるスィカンドラにあります。アクバルが生きている間に建設が始まりましたが、完成したのは1613年のことです。ペルシャ式の四分庭園の中に廟があるのは、先代の「フマユーン廟」と同じ造りですが建物にドームはなく、代わりに上部に多くのチャトリ(小亭)を配し、従来のインド木造建築の名残を残しています。アグラ観光のツアーではあまり行くことは少ない場所ですが、もし時間があったら足をのばして行ってみて下さい。