ようやく安定期に入ったムガル帝国

ムガル帝国皇帝の人物像を知ることにより、インド観光に役立てないかと書いているこのシリーズですが、ようやく4代目まできました。帝国が始まった当初は、周囲に強敵がいてなかなか安定しなかったムガル帝国ですが、3代目皇帝アクバルが50年という在位期間があったこともあり、この時期にようやくムガル帝国は「帝国」といえるような、大国に成長して行きます。すでに王朝の創始から80年あまりたっており、ジャハーンギールが4代目皇帝になった時には、帝国は安定期に入りつつあったようです。

ムガル帝国皇帝ジャハーンギールの生涯を知り、世界遺産のアグラ観光に知識をプラス 前編 ムガル帝国皇帝ジャハーンギールの生涯を知り、世界遺産のアグラ観光に知識をプラス 前編

アクバルの死と新皇帝の誕生

さて、3代皇帝「アクバル」の項でも書きましたが、皇子サリーム(後の皇帝ジャハーンギール)は、父親と大変仲が悪く、ついには父の在位中に反乱を起こしてしまいます。父アクバルは、息子を討つか大変悩みましたが、息子サリームが詫びを入れたため、許すことにしました。しかしアクバルの怒りは相当だったようで、宮廷での面会の際にサリームに平手打ちをしたというエピソードが残っています。ショックだったのかその後、アクバルは身体の衰えが著しくなり、翌年の1605年にデリーで亡くなり、サリームが帝位につきます。

名前を「世界の支配者」に改名

皇帝になってまもなく、サリームは自分の名前を「世界の支配者」を意味する「ジャハーンギール」に改名します。彼は父と同様に宗教的には寛容で、ムガル帝国は繁栄期を迎えます。当時の西・南アジアは、オスマン帝国、サファビー朝ペルシャ、ムガル帝国の3大国が拮抗し、非常に安定していた時期で、まだ西欧人が進出する隙もありませんでした。ジャハーンギール時代には、文化的に先進国だったペルシャから多くの官僚や職人などが仕事を求めてやってきました。彼らにとって、ムガル帝国の宮廷の公用語がペルシャ語だったことも好都合でした。そのなかでも出世頭とも言える人物が、ミールザー・ギャース・ベグです。

ペルシャ人一族と縁戚関係を結ぶジャハーンギール

ミールザーはすでにアクバル時代に重用されていましたが、ジャハーンギール時代になると宰相に上りつめ、1610年には「イティマド・ウッダウラー(国家の柱)」の名を与えられました。そして翌1611年にはジャハーンギールはその娘のヌール・ジャハーンと結婚。またジャハーンギールの三男フッラム(のちの皇帝シャージャハーン)は、ヌール・ジャハーンの弟アーサフ・ハーンの娘ムムターズ・マハルと結婚しました。このムムターズ・マハルこそ、後に「タージマハル」に葬られる皇帝の愛妃なのです。(続く)