アグラのイティマド・ウッダウラー廟は誰の墓?

しかしこの頃から、ジャハーンギールは健康を害し、政治はイティマド・ウッダウラーと妻ヌール・ジャハーンの一族に握られて行きます。1612年にイティマド・ウッダウラーが亡くなると、妃ヌール・ジャハーンが実際の皇帝のように振る舞い出します。ヌール・ジャハーンが建てた、アグラにあるイティマド・ウッダウラー廟は大きくはありませんが、白大理石で建てられ、後のタージマハルに通じる透かし彫りが印象的な建物です。ツアーで寄ることもあるのですが、そうした知識を知っていると、興味も湧くのではないでしょうか。

ムガル帝国皇帝ジャハーンギールの生涯を知り、世界遺産のアグラ観光に知識をプラス 後編 ムガル帝国皇帝ジャハーンギールの生涯を知り、世界遺産のアグラ観光に知識をプラス 後編

皇子間の争いとフッラムの反乱

さて、ヌール・ジャハーンの専横と共に、ジャハーンギールの皇子たちは、後継者問題で不穏な動きをめぐらします。長男のフスローはすでに父に逆らって盲目にされており、二男は死亡したので三男のフッラムと四男のシャフリヤールが有力でした。しかしヌール・ジャハーンは先夫との間の子をシャフリヤールに嫁がせたため、フッラムのあせりはつのります。やがてフッラムはデカン遠征の時に盲目の兄フスローを帯同し、殺してしまいます。そして父皇帝に対して反乱も起こしますが、戦いに破れ、派遣先のデカン高原にとどまらざるを得なくなります。かつて自分が父皇帝に対して起こした反乱と同じようなことを自分も受け、ジャハーンギールはどんな思いだったのでしょうか。

ジャハーンギールの死とヌール・ジャハーンの幽閉

1627年、ついにジャハーンギールが亡くなります。それと同時にヌール・ジャハーンと並んで力を持っていたヌール・ジャハーンの弟アーサフ・ハーンが、宮廷内反乱を起こし、ヌール・ジャハーンを捕らえて幽閉してしまいます。前にも書いたようにアーサフ・ハーンの娘ムムターズはフッラムの妃なので(しかもフッラムはムムターズを寵愛していました)、フッラムとこの機を狙って打ち合わせしていたのでしょう。アーサフ・ハーンにとって、娘の夫が皇帝になる方が都合が良かったのです。アーサフ・ハーンが捕らえた四男のシャフリヤール、長男フスローの遺児2人を、フッラムはデリーでさっさと処刑してしまいます。こうしてジャハーンギール時代は幕を閉じ、新皇帝が誕生します。

ムガル文化が栄えたジャハーンギールの時代

帝国が全盛期を迎えた時代というわりには、皇帝ジャハーンギールの影は薄いです。統治の後半は体調を崩し、妃ヌール・ジャハーンが実際的な皇帝だったこともあります。とはいえヌール・ジャハーン時代は、ムガル帝国も安定していましたから、統治能力はかなりあったようです。「イティマド・ウッダウラー廟」以外に、あまりジャハーンギール時代の建築物が残っていないので、観光的には印象がない皇帝ですが、この時代は文化が栄え、ムガル・ミニアチュール(細密画)のすぐれた作品が多く描かれました。デリーの国立博物館などでチェックしてみるといいかと思います。