領土拡張に明け暮れた皇帝時代

タージマハルの着工は1632 年、完成は、1653年なので、完成までに20年近い歳月がかかったことになります。その間シャー・ジャハーンは、帝国の版図を広げようとデカン高原への遠征を行います。まず、タージの建築が始まってまもなくの1633年には、宿敵のアフマドナガル王国(当時はアウランガバード郊外のダウラターバードを都としていた)を事実上滅ぼします。この時、ダウラターバード要塞の攻防戦の指揮をとっていたのが、後に第6代皇帝となるアウラングゼーブ(ヌール・ジャハーンとの間の息子)です。北西にも兵を送り、サファビー朝ペルシャに奪われていたカンダハルを取り戻しますが、1649年には再び奪われ、晩年にはこちらのほうの領土は縮小傾向になりました。

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再び、皇位継承を求めての戦いが

1657年、シャー・ジャハーンは病気になります。すると待っていたかのように彼の4人の息子たちが、次の帝位をかけて争い始めました。シャー・ジャハーンが目をかけて次期後継者に押していたのは、長男のダーラーでした。最初に行動を起こした次男のシュジャーの軍をダーラーが破る一方、4男のアウラングゼーブは3男のムラードと同盟を結び、病から回復した皇帝シャー・ジャハーンの軍を破ります。そして両軍は、長男ダーラーの軍も破り、都のアグラに入城します。

皇位を簒奪されるシャー・ジャハーン

アウラングゼーブは、長男のダーラーを溺愛する父シャー・ジャハーンを憎んでいたといいます。ダーラーの軍を破ったのが1658年5月29日、ほぼ10日後の6月8日にはアグラ城を占領し父シャー・ジャハーンを幽閉、そのすぐ後の12日には共に戦った兄ムラードを拘束(のちに殺害)、翌月にはデリーで即位式を送って皇帝になるなど素早い動きを見せます。生きている間に帝位を簒奪されたシャー・ジャハーンの怒りは、かなりのものだったようです。しかしアウラングゼーブも父に対して残酷な振る舞いを考えていました。

シャー・ジャハーンの最期

シャー・ジャハーンがアグラ城に幽閉された数ヶ月後、アウラングゼーブは捕らえた長兄ダーラーをデリーで処刑し、その首を父の元に送り届けました。自身も兄弟たちを殺して皇帝になったシャー・ジャハーン。その報いが来たのでしょうか。シャー・ジャハーンが幽閉されていたアグラ城のムサンマン・ブルジュ(囚われの塔)からは、タージマハルがよく見えます。皇帝の胸中はどんなものだったのでしょう。1666年、シャー・ジャハーンは亡くなり、その亡がらはタージマハルの中のムムターズの棺の隣に埋葬されました。タージマハルと対になるはずだったという、黒大理石のシャー・ジャハーンの廟が造られることはありませんでした。そんなことを知って、シャー・ジャハーンが幽閉されていたアグラ城、そしてタージマハルに行くと、理解がよく深まることでしょう。