デリーに残るプラーナ・キラー。そこにある建物は…

さて、当時のデリーは現在のデリーとは、町の中心が大きく違います。イギリスが開発したニューデリーはもちろん、現在の観光の目玉であるラール・キラーやジャマーマスジットは後に造られたのでまだありません。中心はもっと南の方で、インド門の東にある「プラーナ・キラー」がフマユーンの居城でした。「プラーナ・キラー」とは「古い城」という意味で、のちに皇帝の居城であるラール・キラーが新しく出来たため、古くからある城の方をこう呼ぶようになったようです。このプラーナ・キラーは、ツアーの観光コースに入っていないことが多いのですが、もし時間があればここに寄ってみてください。城門をくぐって中に入ると、まず目に入る大きなモスクがあります。これは「シェール・シャー・モスク」といい、スール朝のシェール・シャーが造ったものです。敷地内には、ほかにも八角形の形をした建物があります。実はここはフマユーンが亡くなった場所なのです。

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フマユーンの死…

1555年、皇帝に返り咲き、デリーに帰還したフマユーン。しかしその勝利の喜びは短い間でした。翌1556年1月、フマユーンはこの図書館の屋上から、階段で下に降りる途中で転倒し、石段で頭を打ってしまいます。彼が亡くなったのは2日後でした。単なる事故だったとも、阿片でもうろうとしていたからだとも言われています。47歳のことでした。アップダウンが激しい、フマユーンの人生を象徴するような死でした。

フマユーン廟の建設

フマユーンが亡くなったプラーナ・キラーの南1kmほどの所に、フマユーンの亡がらを納めた「フマユーン廟」があります。ペルシャ式の四分庭園の中央にドームを抱き、白大理石で左右対称に造られたこの建物は、その安定感と均整美がすばらしい、ムガル建築の傑作です。この建物に導入されたペルシャの建築様式が、のちにタージマハルに受け継げられて行きます。中に入るとフマユーンの棺がありますが、実はこの中には何も入っていません。これは仮のもので、遺体はその真下に安置されています。この廟にはフマユーン以外にも、彼の妻や家族、宮廷の人々など150人が埋葬されているようです。フマユーン廟は1993年にユネスコの世界遺産に登録されました。デリーでは必見の建物です。

ムガル帝国の終焉の地となったフマユーン廟

さて、このフマユーン廟、その後、再びムガル帝国の歴史の舞台になりました。1857年に英国に対してインド全域で起きた「インド大反乱(セポイの乱とも)」の際、すでに力を失っていたムガル皇帝ですが、反乱軍に擁立されます。しかし反乱は敗れ、皇帝バハードゥル・シャー2世はこのフマユーン廟に避難したところを英軍に捕まってしまいます。皇帝は裁判後、英領ビルマに流刑されました。こうしてムガル帝国は、その歴史を閉じることになったのです。フマユーンは墓の中で、ムガル帝国の終焉を見届けたのでしょうか。