父皇帝の不慮の事故で帝位についたアクバル

16〜18世紀に南アジアに大帝国を築いたムガル帝国ですが、この帝国を真に「帝国」と呼ばれる規模に拡大したのは、第3代皇帝アクバルの時代です。それ以前のムガル帝国は、北インドに数多くあった諸王国のひとつとそう変わらない勢力だったと言ってもいいでしょう。建国まもなく第2代皇帝となったフマユーンは、才覚はある人でしたが享楽に溺れたことから戦いに破れ、ペルシャの宮廷へと逃れます。その間、ムガル帝国は中断してしまいます。アクバルはそんな父の流浪時代に生まれました。フマユーンは1555年にスール朝を滅ぼしてデリーに返り咲き、ムガル帝国を再興しますが、翌年の1556年1月に事故で亡くなってしまいます。少年アクバルは13歳の若さで、突然皇帝になったのです。

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障害が多かった苦難の少年時代

アクバルが皇帝になった時、周囲は敵だらけでした。早くも同年、デリーはスール朝の残党ヘームーに占領されてしまいます。同年11月アクバルは帝国の存続をかけた第二次パーニパットの戦いでヘームーに勝利し、ようやくムガル帝国が安定化しました。アクバルはまだ少年でしたから、その統治の初期に実際の政治を行っていたのは宰相のバイラム・ハーンでした。彼の強力な後押しがあったからこそ、アクバルは皇帝の地位に就けたのです。しかし成人するとアクバルは次第に力を発揮し始め、バイラム・ハーンや父の代からの宮廷勢力を次々に排除していきます。

力をたくわえていった青年時代

それまでムガル宮廷は、始祖バーブル以来のウズベグ人貴族、父フマユーンが世話になった縁によるペルシャ人貴族が力を持っていましたが、アクバルは自分の力を確立するため、アンベール王国(のちのジャイプール)や他のラジャスタンの王たちと同盟、または制圧して自分の支持基盤を作ります。つまりアクバルの代になって、ようやくムガル帝国は地元インド人たちを重宝するようになるのです。アクバルは30代になる頃に、現在のラジャスタン、グジャラートなどのインド西部、30代半ばまでにビハールやベンガルを征服するなど、北インドの大部分を平定します。(その2に続く)