適材適所で配置されるものかも……

“ おじいさん、自分のほうこそボランティアにお世話にならなきゃいけないくらいでは?”と友人がいぶかしがるほどの見事な老人ぶりを見せつけるBさん。やはり配置先では肉体労働は無理なので、入所者の身の回りの世話や、話し相手などに当たっているとのことでした。これを聞いて、もしかしたら気力も体力も限界まで衰えている入所者にとって、Bさんの存在は、意気盛んなぴんぴんしたボランティアよりも、話し相手としては安心感があるのかもしれないと想像しました。国や顔立ちのちがいを超えて、衰えた者同士で通じ合うものがあるように思えたのです。

海外でのボランティア、甘くはありませんがきっと意義はあります(その3) 海外でのボランティア、甘くはありませんがきっと意義はあります(その3)

人を癒すとは? その意味を知ります

ある日、友人はBさんがハーモニカを練習していることを知りました。とても曲とは呼べない、おそろしく下手な演奏。それでも、Bさんの通っている施設の入所者たちがめずしがって喜んでくれるから、「もっと喜ばせたいと思って練習している」とのことでした。友人は、そのひどすぎる音色に無条件で拍手を送る気持ちになったと言います。「日本であれば物が飛んできそうなほど下手くそなハーモニカが、ここでは心待ちにされている。そして人から心待ちにされていることが、Bさんの生きる張り合いになっている。他人を癒すべきボランティアだが、自分も癒されているのだ」。

それぞれのエピソードが呼ぶ感動

コルカタのマザー・ハウスのボランティアで働いた、二人のボランティアのエピソードをご紹介しました。特に発展途上国でのボランティア活動は甘くありません。観光旅行にちょっと“箔をつける”くらいの動機なら、やるべきではないでしょう。しかし、それが自分を真剣に見つめる機会になることはまちがいありません。半日で脱落したAさんは、60年後にはBさんのように年齢を重ね、淡々とマザー・ハウスで働ける日が来るかもしれません。Aさん、Bさん、話をしてくれた友人、彼らそれぞれがかけがえのない時間をインドで過ごしたのだなあ……と、静かな感動を覚えました。やはり、旅はいつでも感動をくれます。ボランティアでも観光旅行でも、人と出会うことが、偶然の感動をもたらしてくれるのです。