新首都ラクナウが築かれ、文化が栄えた18世紀後半

ラクナウその1からのつづきです。1781年、アワド国王アーサフ・ウッダウラにより都はファイザバードから新首都ラクナウに遷都されました。アーサフはラクナウを王宮や聖者廟、豪華な門などで飾り、インド・イスラーム文化が栄えました。世界史上ではよくあることですが、文化や芸術が栄えるのは、たいていその国の国力のピークが過ぎたころの爛熟期です。発展期には、国の予算は軍事費に費やされますからね。そんなこの時代、ラクナウはデリーに代わって、大いに繁栄したようです。当時。ムガル帝国は衰退して財力もありませんでした。かつて帝国の宮廷に仕えていた画家や職人たちも職を求めて、次々とラクナウにやってきました。

アワド国王が造り、のちに東インド会社の駐屯地となったレジデンシーは「大反乱」の激戦地になった アワド国王が造り、のちに東インド会社の駐屯地となったレジデンシーは「大反乱」の激戦地になった

イギリスに対する不満が爆発した「インド大反乱」の中心に

しかしアワド王国は、次第に東インド会社の駐留費の支払いに苦しむようになり、また、借金のかたに領土を半分も割譲させられてしまいます。19世紀に入ると、アワド王国は完全にイギリスに従属する藩王国になってしまいました。その後も無能で浪費家の国王が続いたため、1856年にアワド王は廃位させられてしまい、アワドの土地はイギリスの管理下に置かれることになります。藩王国解体は大勢の貴族や役人の職を奪い、また東インド会社が藩王国以上の重税を課したため、人々の間に不満が高まっていきます。当時、シバーヒー(セポイ)と呼ばれた東インド会社の傭兵のうち、北インドに展開していた1/3の兵は、アワド出身だったといいます。その彼らを中心として1857年に起きたのが「インド大反乱(セポイの乱)」です。東インド会社の傭兵として働いていたシバーヒーたちが起こした反乱に、旧支配者層や民衆も加わり、インドの半分近くがこの戦いに巻き込まれました。

イギリスの直接支配、そして独立へ

大反乱が起きると、前年に藩王国が取り潰しとなったアワドは反乱軍の中心のひとつとなります。そして首府ラクナウは激戦地となりました。しかしこの大反乱も、結局はイギリスの勝利に終わりました。しかし反乱の責任を取らされる形で、イギリス東インド会社は解散。以降はイギリスがインドを直接統治することになります。世の中は植民地支配から、経済的に支配する帝国主義への移行への時代でした。インド独立後のラクナウは、インドで最も人口の多い州の州都として整備され、北インドの交通網の重要なポイントとして発展を続けています。州都らしく政府関係の建物や政府が作ったモニュメントが多いのもこの町の特徴です。(その3に続く)