日本の殿様、虎を仕留める

6月12日、徳川義親氏らはスルタン一行とともに、ムーア河の上流のジャングルに入ります。このときにはスルタンの命により、22名の兵隊と虎狩り用の犬14頭、勢子として村人200人ばかりを集めた大掛かりな狩猟隊が組織されました。6月13日、虎の足跡を見つけて包囲し、獲物の虎を見つけたのですが致命傷を与えることはできず、空手で宿舎に戻ります。翌14日には勢子と犬に追い込まれた虎を至近距離から撃って仕留めました。虎はメスで、身長6尺3寸といいますから2m近い獲物でした。シンガポール日本人会の記録には、この時の記念写真が掲載されています。一行は虎を駅まで運んで貨車に積み、帰路につきます。日本人が虎を撃ったというニュースは沿線の住人にも伝わり、駅には黒山の人だかりだったとか。勇敢な狩猟ぶりをスルタンにも称賛されます。翌日の朝食は虎肉をステーキにして味わったようです。

大正・昭和にジョホール(現マレーシアのジョホール・バル)を訪れた「虎狩りの殿様」(後編) 大正・昭和にジョホール(現マレーシアのジョホール・バル)を訪れた「虎狩りの殿様」(後編)

「南洋通」としての活躍

徳川氏は『馬来語四週間』(大学書林)を共著で出すなど、帰国後もマレーシアとのかかわりを深めていきます。第二次世界大戦開戦後の1942年、志願して軍政顧問としてシンガポールに赴任します。シンガポールとマレーシアは当時イギリスの植民地でしたが、1941年12月8日にマレー半島に上陸した日本軍が半島を南下しながら英軍を破った結果、順次日本の支配下におかれていました。着任した徳川氏は、狩猟旅行で厚遇を得たジョホールの王族を保護したほか、シンガポールの博物館や植物園などの管理者となって資料・図書を略奪から守ったともいいます。他の地域では貴重な資料が盗まれて散逸していることを考えると、ひとつの功績といえるでしょう。また、言葉や現地事情に通じていたことから、日本の南方占領政策に影響を与えたともいわれています。

戦前の東南アジア事情を知る一冊

徳川氏はのちに、日本理容師協会から名誉会長になってほしいという依頼を受けています。理由が「虎刈り」(虎狩りとかけた)だったそうですが、これを快諾。なかなか愉快な人物だったようです。戦後出版された著書『じゃがたら紀行』(中公文庫)には、大正・昭和初期にマレーシア、シンガポール、インドネシアを旅した当時の様子がユーモアを交えて書かれています。各地で滞在を支援した在留日本人の生活も垣間見え、当時の日本との関係を知る手がかりにもなります。シンガポールやマレーシアを旅行するときに読んでおくと、町の風景も少し奥行きをもって見えてくるのでお勧めです。