町のメインストリートの名前が物騒なのは?

バルカン半島にあるボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。この町を観光で訪れる人にとって、もっとも有名なサラエボの通りといえば、「スナイパー通り」でしょう。これは路面電車も走る町のメインストリートで、空港から旧市街に行くときは必ずこの通りを通ります。しかしどうして「スナイパー(狙撃手)」などという物騒な名前が付いているのでしょうか。それは20年前に起きた、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に由来します。

現在のスナイパー通り。道が広いので、昼間の横断は狙われた 現在のスナイパー通り。道が広いので、昼間の横断は狙われた

町が囲まれ、一般人が狙撃される

1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、反対するセルビア人勢力は町の周囲をぐるりと囲み、銃撃と砲撃を繰り返します。これが「サラエボ包囲」です。その時、この町一番の大通りは道の広さが災いし、横切る者は女子供であろうとも狙撃者の餌食になりました。セルビア人勢力の目的はやがて「民族浄化」になったため、狙うのは民間人でもかまわなくなったのです。こうした民間人を狙った攻撃は、世界の非難を浴びましたが、それは続けられました。この時、町の人は「通りを横断するときは、3番目が一番危ない」と言っていたそうです。スナイパーはひとり目で横断者に気づき、2人目で狙いを定め、3人目を撃つというのです。

多大な被害を受けたサラエボ市

砲撃でも、多くのビルが破壊されました。ムーア人様式で1894年に建てられた国立図書館(旧市庁舎)は全焼し、貴重な蔵書は灰になりました。1994年2月には市民が買い物に来ていたマルカレ市場に砲撃が行われ、68人が一度に亡くなります。1995年になってようやくNATOが介入し、セルビア側に空爆が行われ、10月に停戦。翌1996年2月にセルビア人勢力は撤退し、ようやく政府はサラエボ包囲が終了したことを宣言しました。死者1万2000人、負傷者5万人、うち85%が民間人でした。

今も残る内戦の痕跡

私は2015年のサラエボへの旅で、空港から観光の中心へタクシーで向かう途中、このスナイパー通りを通りました。内戦から20年もたっているので、最初は今走っている道がかつては狙撃者が狙っていた道だとは、実感が湧きません。しかし町の中心に近づいて行くと、いまだビルの壁に銃弾や砲撃の跡が残っているところがあるのに気づきます。町の中心には、サラエボ包囲のとき、世界中のジャーナリストが滞在したというホリデイ・インが、いまもままありました。もし、サラエボに行くことがあるなら、事前に当時のドキュメンタリーや、サラエボ包囲を扱った映画を観ておくといいでしょう。きっと、町を見る目が変わるはずです。