そして事件当日がやってきた

「サラエボ事件の舞台」その1からの続きです。サラエボにやって来た時、フランツは皇太子ですがもう50歳になっていました。6月28日の事件当日、この日はフランツとゾフィーの2人の14回目の結婚記念日でした。しかしこの日はまた、セルビアがオスマン帝国に敗北した「コソボの戦い」が行われた日でもあり、大セルビア主義者たちの怒りを買っていたのもしれません。青年ボスニア党の暗殺グループは7名。全員が青酸カリを持参し、自決する覚悟だったといいます。

実行犯のプリンツィプと仲間たちの写真(サラエボ博物館にて) 実行犯のプリンツィプと仲間たちの写真(サラエボ博物館にて)

2度も失敗した暗殺

暗殺は失敗する事を考え、銃撃や爆弾など複数の方法で担当者が行うことになっていました。当日、4台の車の車列が通りましたが、最初の暗殺者は銃撃する機会を失い未遂に終ります。次に、2人目が手榴弾を投げつけますが、タイミングが外れて後ろの車が爆発。皇太子を乗せた車は、スピードを上げ市庁舎に避難します。この男は毒を飲んで川に身を投げますが、水深がなかったので(いまも数十cmぐらいしかありません)捕まってしまいます。このままこの事件は、未遂で終るはずだったかもしれません。

偶然が重なり、暗殺が実行される

しかし皇太子は市庁舎を出て、爆弾のケガ人の見舞いに病院へ行く事にします。今では止めるでしょうね。その際、車のルートは変更されることになりましたが行き違いがあり、警備は前のルートのほうに行ってしまいます。さらに不運(暗殺犯には幸運)なことに、暗殺をあきらめて食事をしていた第3の暗殺犯プリンツィプが店を出てくると、その目の前で皇太子の乗った車が道を間違えて方向転換しているところでした。「これぞチャンス!」とプリンツィプはピストルを出して、2発を発車。一発目は妊娠中の妃ゾフィーのお腹に当たり、ゾフィーは死亡。2発目がフランツの首に当たり、フランツも死亡します。

暗殺犯は逮捕されるが、戦後は“英雄”に

暗殺犯グループのメンバーは次々に逮捕されました。実行犯のプリンツィプは、第一次世界大戦中に獄中で結核で死去しましたが、戦後生き残った人たちは出所し、1990年まで生きた人もいます。というのも、第一次世界大戦後、ほぼユーゴスラビアの崩壊まで彼らは“英雄”扱いされていたからです。オーストリアの植民地支配に抵抗したヒーローということでしょうか。橋の名前も「ラテン橋」から暗殺者の名を取って「プリンツィプ橋」と名付けられました。彼らの暗殺は正当化され、抵抗運動のヒーローとされていたのです。(その3に続く)