サラエボで行きたかった2つの場所

2015年の8月、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボに行ってきました。第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」が起きた町であり、90年代の「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」で長期にわたって包囲を受けるなど、歴史を刻んできた町です。私はこのサラエボで行ってみたい場所が2つありました。ひとつはそのサラエボ事件の舞台となった「ラテン橋」、もうひとつがサラエボ包囲の際に市民に物資を送り続けた地下トンネル(通称サラエボ・トンネル)です。今回は、現在「トンネル博物館」として公開されているこのトンネルについて紹介して行きたいと思います。

トンネル博物館の外観。民家の壁は、銃弾の跡だらけだ トンネル博物館の外観。民家の壁は、銃弾の跡だらけだ

なぜ「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」は起きたのか

まず、知らない方に、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」を簡単に述べてみましょう。80年代末に始まった東欧の民主化の波ですが、その最後がユーゴスラビアにやってきました。ただしこの国では、「民族主義」という形で現れました。他の東欧諸国は比較的多数派の民族がいる国でしたが、ユーゴスラビアは連邦国家だったように、多くの民族からなる国でした。最初はスロベニア、次いでクロアチアが独立します。その流れでボスニア・ヘルツェゴビナも、4割ほどのボシュニャク人(ムスリム人)と2割弱のクロアチア人が共闘し、3割ほどのセルビア人を押えて1992年に独立を宣言。しかしそれに反対する国内のセルビア人勢力を、ユーゴスラビア連邦軍が後押しして内戦が始まります。最初はボシュニャク人と同盟していたクロアチア人勢力ですが、途中からセルビア人側と同盟を結び、ボシュニャク人を攻撃。ボシュニャク人は苦境に立たされ、サラエボは包囲されます。

「サラエボ包囲」の始まり

第二次世界大戦後に、欧州で初めて起きた大規模な内戦に、欧米諸国はうまく対応できず、仲間割れといっていい状態になりました。そのため、ボスニアの内戦が大規模な民族浄化に発展していっても何もできませんでした。虐殺は3勢力それぞれの間で起きましたが、とくにボシュニャク人に対するセルビア人勢力のジェノサイドは組織的に行われるひどいものでした。そんな中、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、1992年4月の独立宣言後、すぐに包囲され始めます。5月にはセルビア人勢力が町を囲む丘陵地帯をほぼ押さえ、電気やガス、水道などを停止。町へは砲撃を繰り返します。ただ、空港だけは国連による補給のために開放されていました。(その2につづく)