宮殿の中央に神殿と自分の廟を造る

「ディオクレティアヌス宮殿はどんな姿だった?」の後編です。したがって、当時の人たちは東西北の3つの門のうちのいずれかを通って宮殿の中に入りました。メインの門は、当時、ローマ都市サロナに続く道が延びていた北側の「金の門」です。今は住民が暮らす北半分のエリアは、かつて兵舎や使用人の住居でした。ここを100メートルほど進むと、宮殿の中心である「ペリスティル」という中庭に出ます。東西を列柱が囲み、狭いながらも美しい広場です。広場を中心に神殿などが並ぶ、ローマやギリシャの都市の中心部のミニチュア版のようです。当時、この中庭の東には「ディオクレティアヌス廟」、西に「ユピテル神殿」がありました。

「宮殿の地下」はオリジナルの建物の雰囲気がよくわかる部分 「宮殿の地下」はオリジナルの建物の雰囲気がよくわかる部分

皇帝の住居は一番奥に

ローマ皇帝はだいたい死後に「神格化」されるのですが、ディオクレティアヌス帝は生きているうちに自らを積極的に「ユピテル(ジュピター、ギリシャ神話のゼウス)」の子と称し、神格化に励んでいました。ユピテル神殿と対に自分の廟を置くのも、その流れでしょうね。さて、この中庭(広場)は、皇帝に面会に来た人たちが最初に通される入口でもありました。中庭から皇帝の住居へ続く途中に、ドームのある広間があります。これが「前庭」部分で、謁見者はここで待たされ、次の「謁見の間」に通されました。皇帝の住居はその奥の2階部分。海側の廊下からは、美しいアドリア海が見渡せてきれいだったことでしょう。

廃墟になった宮殿に人が住み、町を形成していく

皇帝の死後、時代が下っていくと、この宮殿に大きな変化が訪れます。7世紀になるとバルカン半島一帯にスラヴ人が侵入していきますが、近郊のローマ都市サロナも襲われ、町の住民たちはこのディオクレティアヌス宮殿の中に逃げ込んできます。そのころには宮殿は廃墟になっていましたが、ここは建物が要塞化されていたので外敵を防ぎやすかったのです。住民たちは宮殿内に住むうちに建物を少しずつ壊し、仕切りを作るなどして改造していきました。こうして、宮殿の中に家が建ち始め、やがてひとつの町ができてしまうのです。現在ではスラム化した住居は取り除かれてしまいましたが、古代遺跡内に人々が町を作って暮らすのは、珍しいですね。こうしてかつての皇帝の宮殿を想像しながら、現在のスプリットを歩いてみるのもいいですね。