旧市街に姿を変えたローマ時代の宮殿

アドリア海に面したクロアチアの港湾都市スプリットについては、私以外にも「たびナレ」に書かれているライターさんがいますが、今回は私の得意分野である「歴史」の面から、もう少し突っ込んで書いてみたいと思います。世界遺産に登録されている「ディオクレティアヌス宮殿」ですが、完成から1700年たった今では大きく姿を変えてしまっています。この宮殿ができたころは、どんな姿をしていたのでしょうか? 時間旅行した気分で、当時の様子を描写してみましょう。ローマ皇帝としてのディオクレティアヌス帝については、別項の「世界遺産の宮殿跡がスプリットにある、ディオクレティアヌス帝ってどんな皇帝?」に詳しく書きましたので、そちらも参照下さい。

宮殿の北門。周囲はこのような高い壁で囲まれ、要塞化していた 宮殿の北門。周囲はこのような高い壁で囲まれ、要塞化していた

元皇帝が引退先に選んだ場所は

ディオクレティアヌスが“皇帝引退宣言”をしたのは西暦305年。しかし宮殿はその10年前の295年から建造が始まっていたといいますから、最初から引退も考えていたのでしょう。ディオクレティアヌスはこの宮殿から6、7キロしか離れていないローマ都市サロナ出身でしたが、40歳で皇帝になってからはほぼ小アジアのニコメディア(現トルコのイズミット)に宮廷を置き、そこで過ごしていました。ディオクレティアヌス帝は、ローマ帝国本来の首都ローマへは凱旋式などをのぞいてほとんど足を踏み入れなかったようです。ローマには「ディオクレティアヌスの浴場」という遺跡がありますが、これも建設の命を下しただけで、実際は完成を見に行くこともなかったとか。なのでローマに愛着はなく、かといってニコメディアには新皇帝が住むので、引退後の場所はその中間地点で、かつ故郷に近い場所を選んだのでしょう。

高い壁が囲む、中世の城のような宮殿

当時スプリットは小さな漁村でした。そこにこの宮殿が建てられました。宮殿は200メートル四方の石の壁に囲まれ、各面の外壁には東西南北4つの門がつけられました。外壁はどれも外から見ると20メートル近い垂直の壁。それは“宮殿”と呼ぶより、“要塞”といったほうが近い外観をしています。ローマ史ではディオクレティアヌス帝の時代以降を「専制君主制」の時代とすることが多いのですが、これはすでにローマ帝国が中世化し始めていたということです。ローマ帝国内部といえども、敵の襲来を予想しなければならない状態です。引退した元皇帝の安全が保障される訳でもないということが、この要塞といっていい宮殿を現していると思います。軍人出身の皇帝らしい宮殿ですね。

区画分けされていた宮殿内部

四区画に分けた宮殿の内部は、北東部分が兵舎、北西部分が使用人の住居や厨房、南半分の中央に中庭とそれに面した霊廟と神殿、さらに南(全体の1/4程度)が「皇帝の住居」でした。住居のうち、元皇帝が実際に住むのは2階部分で、1階には厨房や倉庫などがあったようです。宮殿の外壁の4面のうち、住居のある南面は直接海に面していました。現在は南の壁の外側はカフェテラスが並ぶプロムナード(遊歩道)になっており、観光客が行き交うにぎやかな場所ですが、宮殿が機能していた当時は海で、船が直接、現在の南門に接岸できるようになっていました。道路を使っての移動より、海路が便利だった当時ならではですね。(後編につづく)