キリスト教を弾圧した最後の皇帝

スプリットに宮殿跡が残る、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの続きです。さて、帝国の4分割という“荒療治”ともいえる方法で、ローマ帝国に久々の安定を取り戻したディオクレティアヌスですが、後生の評判が悪いのはキリスト教徒への迫害を行ったからでしょう。ディオクレティアヌスは、それまでのローマ皇帝にはほとんどなかった皇帝自身を崇拝するような、東方の専制君主的な方針を取りました。しかし当時信者を拡大していたキリスト教徒が、その皇帝崇拝を拒否したことが彼を怒らせたといいます。各地で強制改宗や教会の破壊、反抗者への処刑が行われました。これが303年に起きた「最後の大迫害」です。しかしそれもあまり効果がなかったことは、「最後の」が付いていることからも明らかでしょう。わずか6年後の309年には、次の皇帝によってこの勅令が取り消されるのですから。

スプリットの宮殿にあるディオクレティアヌス廟。ただし現在は教会になっている スプリットの宮殿にあるディオクレティアヌス廟。ただし現在は教会になっている

現役で引退した最初の皇帝

さて、303年にキリスト教の最後の大弾圧を行ったディオクレティアヌスですが、その2年後の305年、59歳の彼は突如「引退宣言」をします。これはきわめて異例のことでした。というのもローマ皇帝は終身制で、それまで生前に皇帝の位を辞したものはいなかったからです。そのため、無能な者が皇帝になっても止めさせるシステムがなく、それが皇帝暗殺やクーデターの原因になっていたほどです。引退式をトルコのニコメディア(現イズミット)で行った彼は、かねてより準備してあったスプリット(スパラトゥム)に作った宮殿に移り(宮殿は295年から作り始められていた)、晩年を過ごしました。当時のスプリットは、州都サロナから6kmほど離れた海沿いにある漁村でした。

争いに関わることなく、天寿を全う

宮殿といっても200メートル四方の城壁に囲まれたこの建物は、当時としてもちょっとした町だったのでしょう。ディオクレティアヌスはここで晩年は悠々自適の生活を送りましたが、彼の引退後、さっそく皇帝の帝位をめぐって再び内乱が起こります。4分割統治が成功していたのは、制度というよりディオクレティアヌス個人の力量で、彼の引退後は再び権力争いが起きてしまったのです。しかしディオクレティアヌスはそれに関わることはなく、311年に66歳で亡くなります。彼の死後の混乱を治め、再び“ひとりの皇帝”になったコンスタンティヌス1世は、330年にローマ帝国の都をビザンチウム(現イスタンブール)に移します。

死後の評価と、遺体の行方

のちにローマ帝国の国教がキリスト教になったことや、専制君主制を始めたことで、後世のディオクレティアヌスの評判はあまりよくはありません。しかし軍人を増やして、皇帝中心の中央集権の官僚制を作ったことにより、少なくとも国内の治安は安定したのですから、なかなかの実力者だったことはまちがいないでしょう。かわいそうなのは、スプリットにある彼の宮殿内に造られた「ディオクレティアヌス廟」で、キリスト教の世の中になると教会に替えられてしまい、安置されていた彼の遺体が行方不明になってしまったということです。現在、その大聖堂内には、ディオクレティアヌスの迫害によって殉教したサロナの司教の聖ドムニウスの棺が置かれているのは、何とも皮肉なものですね。