ローマ皇帝の宮殿跡が残る町・スプリット

アドリア海に面したクロアチア第2の都市スプリット。ここはローマ時代の皇帝ディオクレティアヌスが晩年を過ごした宮殿から発展した都市です。現在はその宮殿跡がある旧市街は世界遺産にも登録され、観光客も絶えることがありません。しかしその皇帝、ディオクレティアヌスがどんな人だったか知る人は、案外少ないのではないでしょうか。「世界史の教科書に出て来た」とか、せいぜい「キリスト教徒を弾圧した皇帝」ぐらいがほとんどかもしれません。そこで今回は、この世界遺産を楽しむために知っておきたい、この皇帝の生涯を紹介しましょう。

スプリットの宮殿地下にあるディオクレティアヌス帝の胸像 スプリットの宮殿地下にあるディオクレティアヌス帝の胸像

ローマ帝国の混乱を収拾して皇帝に

ディオクレティアヌスが皇帝になったのは284年です。その前の235年から284年の間は「軍人皇帝時代」と呼ばれ、短命の軍人出身の皇帝が次々と立ち、ローマ帝国が大いに乱れた時代でした。何しろ50年の間に自称を含めると40人近くの皇帝がいたのです。のちに「3世紀の危機」と言われるこのローマ大混乱期を建て直したのが、ディオクレティアヌスでした。現スプリットの郊外にあったダルマチア州の州都サロナ出身と言われるディオクレティアヌスの父親は、解放奴隷だったといいます。決して身分が高かった訳ではなかったディオクレティアヌスでしたが、ローマ軍の中で実力を発揮し、一兵卒から親衛隊長官に出世。人望があったようで、先帝が変死すると軍団から推挙されて皇帝になります。その時40歳でした。

帝国を4分割し、専制君主制を始める

ディオクレティアヌスは、広大になった帝国を皇帝ひとりで維持するのは無理と考え、軍団の腹心だったマクシミアヌスを共同皇帝にして、西方の守りに当たらせます。292年には東西それぞれの正帝に副帝をつけて、帝国を4分割して統治。「テトラルキア」と呼ばれるシステムを作ります。各皇帝がそれまでのように反乱を起こさなかったのは、ディオクレティアヌスの巧みな政治手腕が大きかったようです。また彼は長年の懸念だった東方の強敵ササン朝ペルシアとも有利な条件で講和し、久しぶりに帝国に安定をもたらしました。その一方で、それまでの皇帝は建前上でもあくまで「市民の第一人者」だったのに対し、皇帝が官僚組織を使って人民を統治する「専制君主制」をローマで始めた皇帝でもあります。彼以降は、ローマ帝国の性質が変わってしまいました。(後編につづく)