- 夏樹
- 音楽修行に渡仏し20年。教会オルガニストとして活動する傍ら、日本の女性誌やWEBにフランスの新鮮な話題を常時発信。在仏日本人向けコミュニティー誌「Bisou」や、海外で活動するライター仲間が集るメルマガ「地球はとっても丸い」の編集にも携わる。
出発エリアをに変更しました。
並木道が素敵。土日は、お散歩にみんなが繰り出してきます
パレ・ロワイヤル公園は、ルーブル美術館の正面にあるので、展覧会見学後のお茶に最適の場です。公園をコの字の形に囲む建物の一階には、レストランやキャフェ、香水ショップなど、見て歩くだけで楽しいギャラリーが並んでいます。外観内観ともにセルジュ・ルタンスのデザインによるレ・サロン・デュ・パレ・ロワイヤル資生堂もあるんですよ! もともとは17世紀、ルイ13世の凄腕宰相だったリシュリューの城があった場所でした。リシュリューは死後、ルイ13世に城を遺贈し、以来、国王の所有地になりました。
春から秋にかけてはキャフェが外に
ルイ13世も亡くなると、広すぎて寒いルーブル宮殿から、まだ4歳だったルイ14世はパレ・ロワイヤルに引っ越し。しかし、まもなく、反王政革命の前兆であるフロンドの乱が起き、まだ幼いルイ14世は、追い立てられるようにして、真冬の夜中に馬車に乗り、郊外にあるサン・ジェルマン・アン・レイの城に避難します。この思い出は、ルイ14世の一生のトラウマとなり、後、パリを離れて、ベルサイユに住むことになった一因となったといわれています。
文化庁がある場所なので、現代アートが庭園内に展示されている
また、青年時代、ルーヴル宮殿に住んでいたルイ14世は、愛妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールをこのパレ・ロワイヤル宮殿内に住まわせ、ルーブルから歩いて彼女のもとに通っていたということです。彼女の出産時には、王の愛妾の家がわからないように目隠しをされたお医者さんが、召使いに手を引かれて、この庭園内を走ってやってきたとの逸話も残っています。その後、王がベルサイユに引っ越すと、その弟、フィリップ・ドルレアンの所有となります。
奥に見えるのが文化庁の建物
リシュリューの城だった建物は壊され、現在ある建物は、オルレアン公フィリップ2世の時代のもの。一部は文化庁として使われています。1780年、ルイ・フィリップ・ドルレアンの時代になると、お金に困った公は、公園の周りに建物を建て、一階のギャラリーにお店やキャフェを店子として入れるようにしました。革命時には、カミーユ・デムーランのような革命家が、キャフェのテーブルの上に立って、聴衆の前で演説。このキャフェ、もうありませんが、キャフェ・ド・フォワ、ここから群衆がバスチーユ襲撃に出発したということです。
■レ・サロン・デュ・パレ・ロワイヤル
http://www.shiseido.co.jp/sprs/htmlversion/index.htm
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