- 神谷
- 東京都在住。漫然とさすらっていた学生時代の旅から、テーマのある旅へとスタイルが移りました。現在は「その国と日本とのつながり」を頭に置いて旅をしています。地を這う旅からリゾート、自然観察、文学、アート、建築を追う旅までなんでもテーマにして書きます。旅と同じくらい文章を書くのが大好き。お楽しみに!
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デッサウ校の校舎に配されたロゴは古さを感じさせない
「バウハウス」を知っていますか? 第一次世界大戦後のドイツで、たった14年間だけ存在していた造形美術学校です。そのわずかな活動期間にもかかわらず、バウハウスの残したデザインの潮流はいまだにまったく色褪せません。開校100年だった2019年には、日本を含む各国で記念の展覧会が開催されました。今回は、バウハウスの歴史やその功績をふりかえってみましょう。予習してから現地を訪れれば、感激もひとしおになることでしょう。
デッサウ、グロピウス校長の部屋。「グロピウスはこの椅子がお気に入りでした」
第一次世界大戦が終わった翌年の1919年、ドイツ中部のヴァイマル(ワイマール)共和国に、美術、造形、建築などを学ぶ国立の専門学校が設立されました。「建築の家」を意味する「バウハウス」と名付けられたこの学校は、初代校長にヴァルター・グロピウスが就任。すでに近代建築の巨匠としての地位が確立していたグロピウスでしたが、この国、ひいては世界の造形や美術をさらに前進させるいう理想に燃え、若者の教育者としてのスタートを切ったのです。設立当初の理念は、グロピウスの専門である建築を最終的な目標と定めていましたが、徐々にその活動分野は多岐に渡るようになっていきます。
右側の棟が学生寮
1925年、ヴァイマル校が当時の政治的理由などから閉鎖されるとバウハウスはデッサウに移転し、ここで黄金期を迎えます。今でも、バウハウスといえばこのデッサウを思い浮かべる人が多いでしょう。デッサウ校の校舎はモダニズム建築の宝庫。カンディンスキーやクレーなどの世界的な芸術家が直接教鞭をとり、学生たちにとっての施設も充実したものとなりました。グロピウスがデザインした学生寮や学生食堂を利用し、日々勉強に励んだのです。2代目校長のスイス人建築家ハンネス・マイヤーの時代、バウハウスは海外での評判も高まっていきました。
ミース・ファン・デル・ローエがデザインしたキオスクは今も現役
しかし、自由で先進的な校風やこれまでにないモダンな造形物が仇(あだ)となり、デッサウ校はナチスから弾圧を受けるようになります。3代目校長ミース・ファン・デル・ローエが就任してから2年後の1932年、デッサウ校は閉鎖。ベルリンへ移転し私立学校として立て直しを計りますが、ついにナチスの弾圧に敗れ、1933年に閉校されました。そして時代は第二次世界大戦へと進んでいくのです。バウハウスの活動期間は、まさに二つの大戦の狭間だったんですね。
ガイドツアーは参加する価値あり!
バウハウスが終焉を迎えても、その精神はさまざまな形で引き継がれました。教授陣の一人だったモホリ=ナジ・ラースローは、アメリカに亡命したのち1937年にシカゴで「ニュー・バウハウス」を設立。ヴァイマル校舎は、「バウハウス大学」となっています。そして名建築群が残るデッサウには、1999年から実験的な教育機関「バウハウス・コレーグ」がスタートし、現在も学生が学んでいます。デッサウは見学者のためのガイドツアーがあり、ツアーガイドはこの学生さんや先生が勤めているんですよ。
照明器具ひとつ取っても、そのモダンさが光る
現在もバウハウスのデザイン理念を受け継いだ工芸品や工業製品が生産され続けています。現代に生きる私たちと決して無縁な存在ではなく、地続きの芸術。バウハウスに興味を持った方は、「デッサウ校見学ツアー編」「マイスターハウス見学ツアー編」もぜひどうぞ!
※記事は掲載日時点での情報であり変更されている可能性もあります。ご了承下さい。(掲載日:2020/11/30)
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