弥山とペトラに通じる、自然への畏敬の念

弥山(みせん)登山で、弥山本堂を通過したあとも、私はヨルダンのペトラを何度も思い出していました。容赦なく照りつける直射日光や、日陰に入るとフッと汗が引くところや、巨岩がゴロゴロしていてその隙間をやっと通り抜けるような地点がたくさんあるところも、よく似ています。通り抜けるというより、「通り抜けさせてもらう」というニュアンスでしょうか。自然が造った景観を壊さずに歩けるようになっているのは、ペトラも弥山も同じです。もっと岩をとりのぞいてしまえば歩きやすくはなることでしょうが、それをしてしまったら場所の魅力が損なわれるし、「高いところ」「大きなもの」に霊性を見いだすのは万国共通な感覚のように思えます。

広島・弥山(みせん)に登りながら海外旅行に思いを馳せる(後編) 広島・弥山(みせん)に登りながら海外旅行に思いを馳せる(後編)

どの旅にも、等しく理由と愛着がある

私の横を、おばさん二人組がおしゃべりしながら登っていきます。一人は弥山のベテランらしく、もう一人に弥山の景色の良さを力説しています。しかし、「ね、外国なんか行かなくたって、日本にこんなに景色のいいところはあるんだから。飛行機なんか乗ってわざわざ行く必要ないのよ」と語っていたのには、心の中で「それは違うなあ」と思っていました。外国へ行くことの叶わない人かもしれないので本気で反論する気はないですが、私は、弥山がたとえばペトラに劣るとは思いません。だからといって、弥山に登ればペトラに行かなくてもいいとも思えません。いろいろな国へ行って言葉を失う風景を見てきましたが、若いころの登山の思い出も含め、過去の旅の思い出が新しい旅先で目にした風景によってまた呼び起こされてくるのです。両方を思い出すことで、新しい旅先も、過去の旅先も、さらに愛着のあるものとなって心に畳まれる――ある程度の旅の経験のある人なら共感してくれることでしょう。

旅に出れば旅が好きになる

さて頂上に着くと、今にも崩れ落ちそうなボロボロな展望台が待っています。苦笑しながらもうひとがんばりして展望台の階段を上がります。眼下に広がる、太平洋沿岸育ちの身にはあこがれの多島海。ロープウェイの駅からここまで自分の足で登ってきて初めて、弥山の本当のよさと厳島のよさがわかりました。海辺の厳島神社にひけをとらないほどの感動が込み上げ、同時に、旅というものの不思議さにも打たれていました。山岳信仰の霊峰・弥山と、古代ナバテア王国のペトラ遺跡が共鳴し合っていたのですから。やっぱり、旅には汲めども尽きぬ楽しさがありますね!