リスボンとコーチンにある2つの墓

ポルトガルのリスボンに行くと、「ヴァスコ・ダ・ガマ橋」「ヴァスコ・ダ・ガマ・ショッピングセンター」など、ダ・ガマの名が冠された建築物があります。「ヴァスコ・ダ・ガマって昔、世界史で勉強した気がするけど、何の人だっけ?」と思う人がいるかもしれません。私は数年前、ベレン地区にある世界遺産のジェロニモス修道院に行った時、そこにあるヴァスコ・ダ・ガマの墓を見て、感慨深いものがありました。というのも、その数ヶ月前に行ったインドのコーチンで、やはりヴァスコ・ダ・ガマの墓を見たからです。何で「墓」が2つあるのか、そしてダ・ガマはどんなことをした人なのか、話は「大航海時代」とインドにさかのぼります。

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ヨーロッパ人、海路で初めてインドに到達

1488年、ポルトガル国王の命を受けたバルトロメウ・ディアスの船団は、ヨーロッパ人としては初めてアフリカ南端の喜望峰に達しましたが、彼はこの時にインドまでの航路を確認してから帰国しました。念願のインドまではあと一歩、というポルトガルでしたが、1493年にスペインの支援を受けたコロンブスがインドに到達(実際の到達は1492年でアメリカの西インド諸島でしたが)した知らせを受けます。先を越されたポルトガルですが、1497年7月にヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団をインド目指して出航させます。ダ・ガマは翌年、アフリカ東岸でインド人の水先案内人を得て、5月に南インドのカレクト(現カリカット)に到達します。これが世界史で習う「インド航路の発見」ですね。

カリカットに残るガマ上陸記念碑

ダ・ガマは自力でこの航路を発見したのではなく、現地ですでに使われていた航路に便乗した訳ですが、それでもこれにより、高価なスパイスが直接取引できるようになったのです。このダ・ガマが上陸した海岸は、カルナータカ州のカリカットの北12kmにあるカッパド・ビーチです。そこへ行ってみたことがありますが、ただダ・ガマの上陸記念碑が村にひっそりと立っているだけでした。実はダ・ガマは文化摩擦から平和的な交易には失敗してしまいます。そこで武力を背景に大量の交易品を得て、1499年にポルトガルに帰ります。出発時には147名いた乗員のうち戻ったのは55名という大変な航海でしたが、それでも利益は出ました。そして航海の成功を記念して着工されたのが、現在世界遺産となっているジェロニモス修道院なのです。

ダ・ガマの死と埋葬

ではなぜ、ダ・ガマの墓が2つあるのでしょう。その後、ポルトガルは強力な艦隊を送り、インド洋に覇権を築きました。しかしダ・ガマは3回目のインドへの航海の際、ゴアで体調を崩し、1524年にコーチンで没しました。その際、コーチンの聖フランシス教会で葬儀が行われ、教会内にその遺体が埋められたのです。コーチンで私が見た墓は、その最初のものです。しかし遺体はその後、掘り出されてポルトガルに送られ、このジェロニモス修道院に葬られたのです。ということで、2つの墓(ひとつは空ですが)があるのです。そんなことを知ると、リスボンとコーチンという遠い2つの場所が、結びつくのです。(その3に続く)