- 前原利行
- 東京出身、神奈川在住。90年代半ばにバックパッカーで世界放浪したことをきっかけに、旅行ライターの道に。ガイドブック、雑誌、ウエブサイトなどで取材やライティング、編集を担当。行った国は90ヵ国以上だが、最近は国の数が増えないことと体力の低下に悩んでいる。他にも映画や音楽の仕事もちょこちょこしている。
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日本で「天空の城」と言われるのは、この姿から
スロバキア東部にある「レヴォチャ歴史地区、スピシュ城及び関連する文化財」は、スロバキアの世界遺産のひとつです。レヴォチャとスピシュ城は、車で20分ほど離れていますが、今回紹介するのはスピシュ城の方。日本では「天空の城」とも言われることもありますが、その理由は周囲が平らな場所にポツンとある丘上にあるので、城の建物がそれほど高くないにもかかわらずそびえて見えるからです。
この場所に最初に城が築かれたのは1200年代初頭のことで、タタール人(モンゴル人)に対抗するためといいます。当時この辺りに住んでいたのはスラヴ系のスロバキア人ですが、スピシュはハンガリー王国の領土内でした。当初の城はロマネスク様式でした。15世紀にハンガリー王国は財政難になり、スピシュ県をポーランド王国の管理下に譲り渡します。ポーランドはその頃は塩や東西交易で栄えて強国だったのです。また、17世紀にワルシャワに遷都するまでは南部のクラクフがポーランドの都だったので、スピシュからクラクフは、ハンガリーの都のブダへ行くよりも近かったのです。
城は15世紀にゴシック様式、16世紀にルネサンス様式と増改築を重ねていきます。18世紀後半になると、ポーランドの国力も弱まり、現在のスロバキア地方はウィーンのハプスブルク家の領土になります。その頃には、戦争は攻城戦から平地で機動力を活かした戦いに変わり、丘上のスピシュ城の戦略的な重要度は落ち、城主も城を出て平地の町に移り住むようになりました。そんな頃の1780年、城に火災が起き、以降は打ち捨てられて廃墟になってしまいます。城主の税金逃れの放火だったという説もあるとか。1970年より城の修復・復元が始まり、世界遺産に登録されたのは1993年のことです。
ヨーロッパの城ではお約束の拷問部屋
それでは城を見学してみましょう。城は二つの部分からなっています。一番高台にある城郭部は支配層が、下の城壁に囲まれた広いスペースには兵士たちが住んでいました。この城郭部分ではいくつかの部屋が再現されています。ゴシック様式の礼拝堂は聖アルジュベダ礼拝堂です。キッチンなどもありますが、目を引くのはやはり拷問部屋。中世の城といえば拷問というイメージがありますが、その拷問器具のレプリカと使用方法の説明パネルがあります。また、当時の大砲のレプリカもあります。
チケット売り場を過ぎて入った城内には、キオスクやカフェがあり、軽食ぐらいなら食べられます。私が行った時は夏の天気のいい日だったので、なんだかみな、ピクニックに来たような感じでスピシュ城を楽しんでいました。今のところ、スロバキアでどこかひとつお勧めを聞かれたら、まちがいなくこのスピシュ城をおすすめします。このスピシュ城へのアクセスや基点となるスピシュスケー・ポドフラディエの町についてなど、旅の技術的な面は別記事「日本人にも人気の高いスピシュ城。そのアクセスと町歩き編」で紹介しているので、そちらもご覧下さい。
※この情報は2020年12月現在のものです。内容には変更があるかもしれないので、最新情報は該当のホームページなどでご確認ください
●スピシュ城
[URL] http://www.spisskyhrad.sk/en.html
[開館]6〜9月9:00〜19:00、5月〜18:00、10月〜17:00、11月〜15:00。12〜4月はクローズ
[料金]8ユーロ(約1000円)
※記事は掲載日時点での情報であり変更されている可能性もあります。ご了承下さい。(掲載日:2021/01/21)
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