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スペイン3大画家のひとりゴヤの生涯と作品から、当時の社会背景を知る(その5)晩年のゴヤ


「黒い絵の時代」の代表作『我が子を喰らうサトゥルノス』

『我が子を喰らうサトゥルノス』(プラド美術館収蔵) 『我が子を喰らうサトゥルノス』(プラド美術館収蔵)

「スペイン3大画家のひとりゴヤの生涯と作品から、当時の社会背景を知る」その4からの続きです。1819年の年明け、ローマに亡命中の元スペイン王妃マリア・ルイサが死去。3週間後、後を追うように元国王カルロス4世も亡くなります。この年、ゴヤはマドリード郊外に「聾者の家」と名付けた別荘を購入し、そこのサロンに飾るために14枚の絵を描き始めます。これが「黒い絵」と呼ばれる連作です。最も有名なのは、“怖い絵”の代表としても知られる『我が子を喰らうサトゥルノス』(1820〜23年)でしょう。これはローマ神話のサトゥルヌス(ギリシャ神話ではクロノス)が、将来自分の子に殺されるという予言を恐れて、生まれた子供を次々と食べてしまうという神話に基づいています。ゴヤの描くサトゥルヌスは狂気に満ちた目をした老人のようであり、誰もが怖いと感じることでしょう。子供が見たら、ホラー映画並のインパクトがあるかもしれません。プラド美術館には、『砂に埋もれる犬』『サン・イシードロへの巡礼』『運命の女神たち』など、「黒い絵」の全点が収蔵されています。

亡命先のボルドーで82歳の生涯を閉じる

『ボルドーのミルク売りの少女』(プラド美術館収蔵) 『ボルドーのミルク売りの少女』(プラド美術館収蔵)

1820年、スペインではフェルディナンド7世の反動的な絶対王政に反発し、自由主義者たちによる革命が起きます。この革命政府は1823年まで続きましたが、フランス軍がスペインに侵入し(当時のフランスは反革命の時期で絶対王政が復活していた)、革命は挫折。フェルディナンド7世の恐怖政治が始まります。1824年、78歳のゴヤは自由主義者たちへの迫害を恐れフランスに亡命し、ボルドーに移り住みます。1826年に一時マドリードに帰国しますが、1828年に亡命先のボルドーで亡くなります。82歳でした。ゴヤの絶筆と言われているのが、1825〜27年頃に描かれた『ボルドーのミルク売りの少女』です。「黒い絵」の連作とは異なり、穏やかな色彩で、若い女性に光が当たる形で描かれた本作は、ゴヤが最晩年になり、心の穏やかさを取り戻したのでしょうか。これもプラド美術館に収蔵されています。

頭蓋骨が盗まれる事件が

ボルドーで亡くなったゴヤですが、死んだ後も残念ながら穏やかではありませんでした。埋葬から約60年後の1889年に、ゴヤの遺骸をスペインに帰国させようとボルドーの墓を掘り起こしたところ、なぜか頭蓋骨だけ盗まれていたことが判明しました。犯人も理由もわかっていません。その後、残った遺骸はマドリードに運ばれ、サン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に収められました。この礼拝堂の天井画は、1798年にゴヤが描いたフレスコ画『サン・アントニオの奇跡』があるので、見てくださいね。場所はR号線「プリンシペ・ピオ」駅から徒歩6分ぐらいで、入場無料です。天井画が見やすいように、イスと鏡があるのもありがたいです。それでは波乱に満ちたゴヤの生涯から、19世紀初頭のスペインの社会背景を紹介してみました。マドリードへ行ったら、ぜひゴヤの作品巡りをしてみてくださいね。
●サン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂(ゴヤのパンテオン)Ermita de San Antonio de la Florida (Panteon de Goya)
[公式HP] ww.realacademiabellasartessanfernando.com/es
[開]火〜日曜9:30〜14:00、15:00〜19:00 [休]月曜

※記事は掲載日時点での情報であり変更されている可能性もあります。ご了承下さい。(掲載日:2018/10/20)

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※この記事はガイドレポーターの取材によって提供された主観に基づくものであり、記事は取材時時点の情報です。
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