- オキシマ・ヒロミ
- 東京在住。2001年にイスタンブールを訪れて以来、トルコに魅せられて取材を重ね『イスタンブールと西北トルコ』(日経BP社)を出版。2014年秋には南東アナトリア地方を徹底取材する。チグリス川とユーフラテス川上流のメソポタミア地方には聖書縁の地や古代遺跡がたくさん。人気観光国トルコの、主にまだ余り知られていない町や地域を紹介する。
出発エリアをに変更しました。
まるで異次元の世界に迷い込んだかのようなネクロポリス
南東アナトリアを旅する醍醐味は、遺跡をたくさん見学できることだ。もともとそういうものに興味がない人でも、実際に訪れてみると無条件に感動する。それが続くと、そのうち遺跡めぐりが楽しくなってくる。ダラと呼ばれる古代都市跡とそこに隣接して建設されたネクロポリスは、古代ローマ時代の興亡を如実に物語っている。場所はマルディンとヌサイビンの間、マルディンからは南東へ30キロほどのオグズ村にある。6世紀に栄えた城塞都市で、東ローマ帝国時代の重要な軍事拠点だった。ダラはローマ皇帝アナスタシウスによって505年に建設された。そのためアナスタシウポリス(アナスタシウスの都市国家)と呼ばれることもある。
石壁に掘られた大きな穴は祭儀に使われた場所だったと思われる
アナスタシウス帝は長寿で知られ、518年に88歳で世を去った。跡継ぎがいなかったため、元老院は将軍ユスティヌスを皇帝に選ぶ。彼は目立った功績がなかったがその養子、527年に次の皇帝になったユスティニアヌス帝の時代にダラがもっとも繁栄した。ユスティニアヌス帝はコンスタンティノープル(現イスタンブール)のアヤソフィアを創建したことで知られる皇帝である。彼はダラの町を広げ、町を取り巻く市壁の強化をはかった。その一部は今日も見ることができる。現在のヌサイビンは当時ペルシャ領であったため、ダラは最前の砦だった。530年に始まったローマ帝国とササン朝ペルシャとの戦いは、最終的にアラブ人に征服されるまで断続的に100年以上も続いた。
5世紀に建設されて14世紀まで使われていた貯水槽
ダラは人口8万人ほどの町だったが、その半分のおよそ4万人は兵士だった。長引くペルシャとの戦いで兵士たちは次々に命を落とした。その数は何万人にも及び、彼らを葬るための巨大な墓所が建設された。そこは採石場で壁は高い所で20mもある。真っすぐに切られた石壁にいくつも横穴を掘って兵士の遺体を葬った。このネクロポリスは長い間放置されていたが2010年から発掘作業が始まった。既に3000体もの人骨が見つかっている。ローマ時代、堅固に建てられた城壁は修理に膨大な費用が掛かるため手を加えることが少なくなり次第に軟弱になっていく。ダラはとうとう639年にアラブ人に征服されてしまった。ローマ兵の駐屯地として140年近く栄えていたダラは役目を終え、朽ちて忘れ去られていく。
普段は誰もいないダラの都市遺跡
ダラには深さ18mと21mという大きな貯水槽がある。1つは市民用の貯水槽で町の中に、もう1つはよそ者を町に入れないため市壁の外に造られた。保存状態が良く、こんな立派な貯水槽をよく2つも造ったものだと感心する。ダラは細長い町だったようで、何となく輪郭は判るが古代都市の面影は微塵もない。遺跡の向こうにクルド人の集落があり、観光客の姿を見ると子どもたちがワッと遺跡の壁の隙間から中に入って来た。クルド語なのであろう、盛んに話しかけてくるがさっぱり判らない。朽ちた石壁は子供たちにとって格好の遊び場だ。現実の生活は厳しそうだが、目の前の光景はミヒャエル・エンデの作品『モモ』の映画の一場面のようだった。
一人だけ恥ずかしがってこちらへ来ないクルド人の子ども
ダラ古代都市遺跡 Dara Harabeleri
住所:Dara Koyu Turkiye / Mardin / MERKEZ
ネクロポリスの見学時間:夏場は毎日9:00〜17:00、冬場は16時まで
古代都市遺跡は常に見学可能
貯水槽の見学は許可が必要
アクセス:
拠点都市はマルディンになる。
公の交通手段はないので、マルディンからタクシーで。
タクシーはホテルで手配してもらい、値段もその時に交渉してもらう。
所要時間は片道でおよそ1時間。
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※旅行前には必ず、外務省の海外安全ホームページで訪問地の安全情報についてご確認ください。
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