ヒッポドロームで市民が反乱を…

イスタンブールのヒッポドロームについての記事、その2からの続きです。さて、「パンとサーカス」という言葉を前に述べましたが、東ローマ帝国時代の532年、ここで大きな事件が起きます。この日、このヒッボドロームに集まった大観衆は戦車競争に熱中していました。当時の一番人気の競技は、四組のチームが馬に引かせた馬車でレースを競う戦車競争。しかもその出場チームのサポーターは、政治的な党派は同じだったのです。その日、興奮した観客は皇帝ユスティニアヌスの退陣を求めて暴徒化してしまいます。外に出た市民は勢いでそこら中に火をつけ、このとき最初のアヤソフィアも焼失してしまいます。これが「ニカの反乱」と呼ばれるものです。

先端が折れた「蛇のオベリスク」と奥にある「テオドシウスのオベリスク」 先端が折れた「蛇のオベリスク」と奥にある「テオドシウスのオベリスク」

逃げ出すのを思いとどまった皇帝

伝説では、皇帝ユスティニアヌスは「もうダメだ」と船に乗って逃げようとします。しかし皇后テオドラが「あなたしっかりしなさい」とハッパをかけ、思い直したユスティニアヌスは総督ペリサリウスに命じて反撃に出ます。約3万人の暴徒(市民)がヒッポドロームに追い込まれ、虐殺されて事態は収集しました。時代はずっと下った1826年のオスマントルコ時代にも、この場所で血が流されました。当時のオスマン朝スルタンには親衛隊ともいえる「イェニチェリ」と呼ばれる宮廷警護の軍がいたのですが、それが反乱を企てたということで、スルタンのマフムート2世がここで1000人あまりのイェニチェリ軍団を処刑したのです。このように、このヒッポドロームには血塗られた歴史があるのです。

現在のヒッポドロームは

ヒッポドロームは、いまではそんな血塗られた歴史の微塵もないのんびりとした広場になっています。しかし何せ2000年近い歴史がある場所なので、ここに立って感慨にふけるのもいいでしょう。広場の東南には、かつてビザンツ時代の大宮殿があったのですが、オスマン朝時代に取り壊されたので当時のものは残っていません。広場の南側からはブルーモスク(スルタンアフメット・ジャーミィ)に入場もできます。北に面したトルコ・イスラーム博物館は、トルコ人が中央アジアにいたころからの歴史をたどる博物館です。ヒッポドロームの観光が終わったら、ぜひ寄ってみてください。中のカフェもくつろげますよ。