新首都造りは、上水道のインフラから

西暦330年、時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ローマ帝国の都をローマから東方のビザンティウム(現イスタンブール)に遷都しました。しかし当時のビザンティウムは地方都市に過ぎず、そこに首都機能を移転とするとなれば、大規模なインフラ事業が必要でした。そのうちのひとつが水利事業です。人口1万の町が10万になるとすれば、10倍の飲み水が必要ですよね。下水に関しては海に面していたので問題はなかったと思います。肝心なのは飲み水でした。ビザンティウムはいくつもの丘の上に作られた町だったので、井戸を掘ることは難しかったのです。そこで何本もの上水道が造られました。

これはすごい! 現代の都市にローマ時代の建物が。イスタンブールにあるウァレンスの水道橋 これはすごい! 現代の都市にローマ時代の建物が。イスタンブールにあるウァレンスの水道橋

土木工事にたけたローマ人なら、水道を引くのもお手のもの

水源はコンスタンティノープル(首都となった以降はビザンティウムから改名)から19キロ郊外にある、ベオグラードの森。そこから水道が引かれることになりましたが、問題は半島の先端にある宮殿付近まで、いくつかの谷間を越さねばならないことでした。ポンプや電気などない時代のことですから、水道は傾斜のみで流れるようにしなくてはなりません。しかし何百年にも渡り、帝国各地に水道を引いて来たローマ人にとっては、それはお手のものでした。いまでも各地に残るローマ水道橋と同じものを、ここコンスタンティノープルにも建設したのです。現在も見られるものとして有名なのは、ファティーフの丘とエミノニュの丘の間にかかる「ウァレンスの水道橋」でしょう。

水道橋に名がつけられた皇帝だが、同年に死去

このウァレンスの水道橋の建設が始められたのは、首都を移転したコスンタンティヌス大帝(1世)の治世ですが、完成したのはウァレンス帝の統治時代の378年。そのため「ウァレンスの水道橋」と呼ばれています。しかしウァレンス帝は水道橋の完成と同じ年の378年に、ハドリアノープル(現エディルネ)の戦いでゴート族に破れ、逃げ込んだ小屋に火をつけられて焼死するという不幸な最期を迎えてしまいました。

古代と現代が同居する都市

完成した水道橋は、その後も長らくコンスタンティノープル市内に水を送り続けました。ここを通った水の一部は、旧市街の「地下宮殿(貯水池)」に溜められていたようです。水道橋の長さは800メートルですが、建設当時は1キロメートルあったといいます。高さは26メートル。2層のアーチで建てられており、橋の下は新市街へと続く幹線道路のアタチュルク大通りが走り、ひっきりなしに車が行き交っています。現代的な風景と古代の建物が共存する歴史ある町、イスタンブール。この水道橋は、まさしくそんな風景を代表しているものでしょう。