イスタンブールの昔の名前は?

トルコにあるイスタンブールの昔の名前をご存知ですか? そう、コンスタンティノープル。紀元後330年に当時のローマ皇帝コンスタンティヌスが、ギリシアの植民都市ビザンティオンに遷都、自身の名前からコンスタンティノープルと名付けたのです。395年にローマ帝国が東西に分裂すると、この町は東ローマ帝国の首都として大いに繁栄しました。東ローマ帝国を別名ビザンチン帝国というのは、かつてのこの町の名前に由来していたのです。今のイスタンブールを訪れると、トルコはイスラム教徒がほとんどの国ですので、ローマ帝国とは結びつきません。しかし、東ローマ帝国で庇護されたギリシャ正教の総主教座、アヤ・ソフィア大聖堂は、この地に建てられたのです。ギリシア正教が、東欧やロシアにまで及んだことも、この大聖堂の影響力が、いかに大きかったかを物語っています。

海外の歴史〜コンスタンティノープル陥落の光景が想像できるガラタ塔 海外の歴史〜コンスタンティノープル陥落の光景が想像できるガラタ塔

東ローマ帝国VSオスマン帝国

そんな東ローマ帝国も、やがては終焉を迎えます。1453年、オスマン帝国のメフメト2世は、コンスタンティノープルを囲む城壁の外側に城を築き、そこを拠点に総攻撃に打って出ます。その時使用した武器が大砲です。命中率が悪く、しかも準備に3時間もかかってしまて、思ったように戦えません。東ローマ帝国側は、ボスポラス海峡から入り込んだ金角湾の入口に、鉄製の巨大な鎖を張って、オスマン側に船での侵入も許しません。事態はこう着しました。

コンスタンチノープル陥落の奇襲とは?

その時にメフメト2世は奇策に打って出ます。なんと船をボスポラス海峡から、金角湾の対岸にある小高い丘の上に上げ、今度は金角湾に降ろしたのです。その数70艘。オスマン側はこの奇襲作戦のおかげで、陸からだけでなく、ボスポラス海峡側、金角湾側からと、両側から町を包囲し攻撃することができたのです。この戦いは、やがてオスマン側の勝利で終わり、1000年以上続いた東ローマ帝国が、現在のイスタンブールの地で終わりを迎えたのでした。

イチオシのイスタンブールの夕方の過ごし方とは?

都市の名前がコンスタンティノープルからイスタンブールに、ギリシア正教の総主教座が置かれていたアヤ・ソフィアがモスクになってしまったのも、戦いに敗れたからなのですね。ですからキリスト教徒のヨーロッパ人にしてみれば、この地はなんとも感慨深いのです。そしてぜひとも、船を持ち上げた丘の上に立つ、ガラタ塔に昇ってください。市内を一望していると、「コンスタンティノープル陥落」のシーンが目の前に浮かんできますよ。夕日に映える金角湾と、モスクや尖塔が浮かび上がるイスタンブールの町の美しさは言葉になりません。これが僕のイチオシの、イスタンブールの夕方の過ごし方です。